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ノリタケ・アールデコの魅力

☆ ノリタケ・アールデコが伝説の中に消える日

 アールデコといえば、フランク・ロイドによる帝国ホテルや庭園美術館(朝香宮邸)を思い浮かべる方も多いだろ。しかしながら、陶磁器という分野において、その斬新な装飾様式を応用し、進化させ一般大衆のものへと裾野を広げたのはノリタケを除いて他にないという大きな事実は意外とあまり知られていない。
確かにアールデコの陶器では、手作りの一点制作ものやクラリスクリス(Clarice Cliff)などに秀作が見られるものの、磁器製品ではフランスのロブジュやイタリアのジオ・ポンテ(Gio Ponti)、フランシスコ・ノン二(Nonni Francesco)などにその優れたものが散見されるに過ぎない。その上、ノリタケにそのモティーフの影響が色濃くみられるロブジュなどは、もはや市場に殆ど顔を見せず、ノン二の秀作などはイタリアの国際陶磁美術館に収蔵されており、決して一般のコレクターズアイテムの対象とはならないのである。近年、ノリタケ・アールデコも優れた作品は高騰し、なかなか市場に出なくなったが、アールデコの作品自体、僅か10年足らずの期間しか作られておらず、絶対数が少ない。ノリタケもロブジュのようにコレクターの伝説の中に消える日もそう遠くないかもしれない。

    

☆ 2つのオールドノリタケ

 わが国では、オールドノリタケとは、明治末期から第二次世界大戦末期にかけて、ノリタケカンパニーの前身の『森村組』や『日本陶器』が欧米を中心に海外に送り出した陶磁器群の総称ということになっている。しかしながら、海外では1920年代に生産されたアールデコの作品を『ノリタケもの』、アールヌーボーの流れを持つ、それ以前のスタイルのものを『ニッポンもの』とはっきりと区別し、コレクターズクラブもそれぞれ存在している。このサイトでもこの2つに分けて紹介している。わが国ではこの両者を曖昧にオールドノリタケという一つの言葉で扱ってきたように思うが、このような捉え方であれば、戦前に生まれたアールデコという私たちの20世紀の素晴らしい文化の共通財産が闇に葬られてしまうことになりかねない。それは、従来のアールヌーボー様式とは全く異なる斬新な装飾様式のアールデコの文化を一世紀近く前にわが国で開花させながら、その卓越した芸術性を見出せないでわが国の近代陶磁史を飾ることなく通り過ぎてしまうことになる。これは、殖産振興と外貨獲得のため、優れたデザイン性のある作品は主に輸出に回され、国内でその軌跡をたどることが容易ではなかったことに加え、わが国におけるアールデコ様式に対する認識の低さが海外での評価が先行する形となっているのではないだろうか。



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☆ ノリタケ・アールデコの特色

 アールデコとは言うまでもなく、1925年の現代装飾産業美術国際博覧会(アールデコ展)の略称を由来とする装飾様式で1925年様式とも言われている。大正末期から昭和初期にかけてフランスを中心に欧米で一世を風靡し、工芸、建築、絵画、産業美術やファッションなど、あらゆるフィールドに波及した装飾様式の総称である。
アールヌーボーの様式が意匠の過度の装飾を目指したものとすれば、アールデコは多くのデザインを統合、複合化しつつ、逆に過度の装飾の簡略による装飾性の追及が見られる。そして、それはアールヌーボーの優美な曲線や繊細な装飾性と有機的形態とは対照的に、直線と立体の知的な構成と幾何学模様による非常に斬新な感覚を志向したもので、合理的な機能美を追求するものであった。
このように、一般にアールデコは、幾多の芸術的要素を取り入れたモダンなデザイン様式であるが、オールドノリタケには主に、次のようなアールデコの特徴が見られる。まず、ロシア構成主義や表現主義に見られる幾何学文様や非具象的なジェオメトリックな作品である。また、ノリタケ・アールデコの大きな特徴の一つにラスター彩のビビッドでメタリックな原色使いを多用したものが多い。これは欧米のアールデコ陶磁器と比較して非常にその使用頻度が高い。次に、古代エジプト、オリエンタルな文様から由来するもの。水玉やシルエット文様。そして、アールヌーボーを簡略化したものやバウハウスの影響を持つものなど、多岐にわたっている。
また、その用途もプレート、花瓶、コーヒーセットなどからドレッサードール、キャンディーボックス、パフボックス、ウオールポケットなどのファンシーグッズまで実に多種多様である。そして、モティーフも動植物の自然文様をデフォルメしたものからピエロ、像、インコ、孔雀などのファンシーなフィギュラルなものが多く実に多彩である。

☆ ノリタケ・アールデコのモティーフの由来

 ノリタケ・アールデコのユニークな着想に基づく奇抜な造形美や様式化された比類なきデザイン文様は、当時の素晴らしいコラボレーションの成果ともいえる。
1919年から1930年のおよそ10年間、米国の森村ブラザーズのセールスマネージャーであったチャールズ・カイザー(Charles Kaiser)は、イギリス人デザイナー、シリル・リー(Cyril Leigh) を雇い入れ、800点以上ものデザインを創作し日本に送ったとされている。ノリタケはその優れた図案やモティーフを見事に自分のものとしたのである。勿論それだけではない。マイセンをはじめとする西洋磁器が柿右衛門や伊万里を徹底的に模したのと同様、多くの印象派の巨匠たちが浮世絵の影響を強く受けたのと同様に、ノリタケは積極的に意匠のソースやモティーフを外に求めた。模倣は文化の源泉であり、そのキャッチボールの中からまた新たな文化が生まれるのである。
ノリタケは当時流行ったブリッジのスコアーカードやトーリーカードのモティーフ(ピエロやデコレディー)をプレートやパフボックスなどに試み、見事なまでに完成度の高いアールデコ作品に仕上げている。また、1920年代のブロードウェイ作品に衣装デザイナーとして活躍したコナント(Homer Conant)が手がけたTheatre Magazineのマダム・ポンパドールのイラストもノリタケは好んでプレートに応用している。ビビットな原色とラスター彩特有のメタリックな発色がアールデコの感性を倍化させ、モティーフをより一層際立たせる素晴らしい着想である。このような例は世界のアールデコ陶磁に見られない比類なきものである。そして、パリのファッション雑誌、ハーバーズ・バザーの表紙を長年にわたって描き続けてきたエルテ(Erte)の鮮やかな色彩感覚やオリエント風の豪奢な意匠をノリタケは見事に陶磁器の世界に再現してみせる。ノリタケ・アールデコに登場する華麗なるデコレディーたちは、当時の女性風俗のファッションやモダンガールの感性を雄弁に語りかけてくれるのである。他に、レオネ・ミッシェル(Leone Michael)のPochoir printと呼ばれる版画から大きなヒントを得て南部美人シリーズ(Southern Belle Series) の一連の作品が生まれており、版画やポスターからの応用が少なくない。
ノリタケ・アールデコの大きな特徴はこのように、西洋の単なる模倣や亜流にとどまらず、様々なモティーフや奇抜な造形を直接意匠として取り入れ、それを独自の着想の下に陶磁器の世界に華麗に昇華させたところにある。
世界に比類なき素晴らしいこの文化遺産を私たちは世界の陶磁史の潮流の中に位置づけ、しっかりと見つめ直す必要があろう。
再発見から再評価へ。今まさに、わが国のデザイン史や陶磁史に忘れかけていたページが加えられようとしている。


☆ ノリタケ・アールデコの再発見

 このノリタケ・アールデコに魅せられ、その再発見の端緒を開いたのはアメリカの陶磁研究家ハワード・コトラー ワシントン大学教授(Howard Kottler)であった。彼はノリタケ・アールデコに着目し、それを世界のアールデコ様式の中で位置づけようとしたのである。1982年に彼のコレクションが『ノリタケ・アールデコ陶磁器 ハワード コトラーコレクション展』としてスミソニアン研究所とワシントン州立大学によって開催されるのである。そして、その後全米を巡回し、翌年に東京赤坂のノリタケのショールームに里帰りしたのである。『戦前の日本にアールデコの文化があった!』1980年代まで戦前のわが国でこのようなモダンな陶磁器が作られていたことはすっかり忘れられていたのである。アメリカと日本の陶磁史の狭間に忽然と現れたこの芸術作品を、美術評論家の海野弘氏は『ノリタケ・アールデコの再発見』とセンセーショナルに表現している。この再発見を機に里帰り品としてにわかに脚光を浴びるのであるが、最近のオールドノリタケのブームは盛り上げを中心とした『ニッポンもの』であり、コトラー教授が着目したアールデコの芸術性や造形美とは違った方向に向かっているように思えるのである。勿論、初期の盛り上げなどのニッポンものも大変魅力的で私は収集の対象としているが、アカデミズムの立場から忽然と発見されたノリタケ・アールデコは近い将来、わが国の近代陶磁史にその足跡を残すように思えてならない。マジョリティーの芸術的欲求を満たすために大量生産されたラスター彩の陶磁器は安価なため評価が低く、アールデコという装飾スタイルへの理解が遅れているのであろうか。モダン都市のライフスタイルとマシンエイジの要請に適応すべく、新しい時代(1920年代)は、少なくとも万人のための優れたデザインや芸術を渇望していた。アメリカにおいて、それに見事に応えたのがノリタケである。装飾芸術の未来は、ごく一部の富裕層の美意識に支えられているのではなく、品質と大量生産は決して相反するものではない。その時代固有の要求に基づいて、装飾様式が生まれるように思う。特定の顧客のために丁寧に作る職人とその作業を前提とする美の概念からは、芸術や美術の進化は殆ど望めないのではないだろうか。

☆ ノリタケ・アールデコが生まれた背景

 そもそも、ノリタケの歴史は日米の貿易の端緒を開いただけでなく、双方の文化交流史の側面も併せもつ。1876年、森村市左衛門は弟の豊をニューヨークに派遣し、森村組を設立する。当初は漆器、錦絵、印籠などの骨董雑貨を輸出していたが、しだいに陶磁器が中心となってくる。それらは名古屋で買い付けられていたが、やがて専属の窯をもち1904年に日本陶器合名会社がつくられた。曲線が主体である優雅で繊細なアールヌーボー様式の陶磁器がつくられ、海外に輸出されるのである。これらの製品の多くにはM-NIPPONという代表的な裏印がついており、アメリカでこれらをニッポンと呼ぶのもここに由来している。

1920年代に入り自動車、電気、高層建築といった機械技術が発達し、大量生産が可能になり、モダン都市のライフスタイルが確立されてくる。陶磁器もまた新しい時代を迎えるのである。それまで高級品とされていた陶磁器はマジョリティーのニーズに応え、一般化していく。当時の時代の感性や感覚にマッチしたアールデコの原色や単純明快なデザインは、大量生産の工程で求められたものと合致していたのである。曲線が直線に。パステルカラーがビビッドな原色に。メカニックでスピーディーな感性やジャズの不協和音。家庭から解放された女性たち。映画、ラジオ、ファッション、スポーツといったモダン都市の感性をアールデコは見事なまでに集約していったのである。

このような新しい時代に日本も対応しなければならなかった。従来のアールヌーボー調の陶磁器に代わって、時代の感性に合った、しかも、より大量生産でき欧米の製品に対抗できる陶磁器が必要となったのである。技術的にレベルの高い欧米の製品を上回る優れた陶磁器を大量生産できるのは、わが国ではノリタケ以外になかった。1920年ごろからノリタケがアールデコの陶磁器の生産を始めたのもこのような時代背景があったからである。

大変残念なことに、この部分がノリタケの歴史において全く空白部分となっている。戦災で日本側の記録が失われているためか、社史である日本陶器70年史、100年史ともにアールデコについて全く触れられていない。わが国でこのような素晴らしいアールデコの文化があったことが長い間忘れられていたのである。皮肉にもそれが再発見されるのはアメリカにおいてであった。